怪物はハコの中に

架空の劇団にまつわる創作に関するものです

ルナティック・フォー・ユー

 レッスン帰りに見た夕空は、いやに大きい月が丸く煌々と輝いていた。
「お月様がきれいだね」
 何時間も踊り、歌い続けていたはずの彼女はまるで疲れを感じていないようにスキップしながら空を見上げている。彼女にそう言われると、なんでもないはずの月が彼女のためにあつらえたように綺麗に見えた。
「ほんと、狂いそうなほど光ってるね」
「狂う?」
「月の光を浴びると気が狂うって話があるんだよ。とりわけこんなに大きくて光る月じゃ、さ」
 なんとなく意地悪なことを言ってみたが、彼女は「なにそれー」とおかしそうに笑うだけだった。
「狼男になっちゃうってこと?」
「どうする? ここで僕がオオカミになって君を食べちゃったりして」
「わたしは食べても美味しくないよー?」
 くすくす笑う彼女の腕をわざと掴んで唸って見せると、彼女は一層ふざけて悲鳴をあげた。
「きゃー、れーくんこわーい!」
「がおー!」
「あはははっ!」
 道路でじゃれついていると、通りすがったサラリーマン風の通行人からいかにも鬱陶しそうに咳払いをされた。二人で顔を見合わせ、再び歩きだす。
「……でも、星が見えないや」
 彼女は空を見上げながら、独り言のようにそう呟いた。
「まだ時間が早いからじゃない? 月が昇ってるったって、まだ夕方なんだから」
 確かに、空には月以外、ほとんど光るものが見えない。普段そんなに夜空なんて見ないから、こんなものかとしか思わないが。
「大体、ここは低地だしそこそこ都会でしょ。星なんてそうそう見えないって。スモッグだの、ネオンの明かりとか……」
「ううん。月のせいだよ。こんなに明るすぎるから」
 そう言って彼女は、まるで睨んでいるかのように目を細めて月を見つめた。
「れーくん、知ってる? 星を見るときは新月の日の方がいいんだよ」
「え? ああ、聞いたことはあるっけな。天体観測の話?」
「満月は強すぎるんだ。光が明るすぎて、周りの星の光を全部かき消しちゃう。月が明るければ明るい程、星空は台無しになっちゃうんだよ」
 考えたことはなかったけど――理屈としてはそうなるのか。地上からの光にすら容易く輝きを失ってしまうような星だ、同じ空にもっと輝く光があればそんなもの、まるで最初からなかったみたいに潰されて見えなくなってしまうだろう。実際にあったとして、それを見上げる僕達の目はそれを見つけられるほど精密じゃないのだから。
「もったいないねえ。せっかく綺麗な月があるんだから、周りの星も見えればもっと綺麗な空になるんだろうに――」
「うん」
 月に照らされている彼女の顔は、何故だか翳って見えた。
「れーくん。空にはね、たくさん星があるんだよ? 数え切れないほど……色も大きさも違うけど、みんなきれいで、一つ一つにちゃんと名前があるんだ」
「途方もないねえ。数えてるだけで一生が終わっちゃいそうだ」
「月も綺麗だけど、でも、月があるとその全部を台無しにしちゃうんだ。たくさんの星の光の押し潰して、一人っきり、暗いだけの空に光ってる。たった、ひとりぼっちで」
「ふぅん――」
 満月は徐々に地平線から離れ、中天へと昇って行こうとしている。自分の輝きの強さを知ってか知らずか。
「でも、それはしょうがないじゃん。月も星も、そういう風になってるんだからさ。新月になれば星も見えるんだろ?」
「うん、それはそうなんだけどね――」
 彼女の頬が、きらりと光った。

「なんだか、寂しいなって――わたしが月だったら、そう思う気がするんだ」

「君は……セレナは寂しいの?」
「わたしじゃないよ。お月様の話」
 彼女はくすくす笑う。空笑いだ。
「ごめん、変なこと言っちゃった――」
「寂しくなんかさせないよ」
「え――?」
 足元に出来た長い影を蹴りながら歩く。二人で並んで歩くと影同士がくっついて、まるで見知らぬ化け物のような形になる。
「こんなに綺麗な、何よりも素敵な人を、ひとりぼっちになんてさせるもんか。周りに誰もいなくなろうと、僕はずっと隣にいる。一秒たりとも目を離さず、ずっと、永遠にだ。何があろうと離れてなんてやるもんか。たとえ嫌われようと、嫌がられようと、ずっと君のそばにつきまとってやるんだ――」
「……れーくん」
「――って、僕が地球だったら言ってやるんだけどな」
 頬が熱いのは、きっと長台詞を息継ぎなしで言って酸欠になったせいだ。舞台の上なら誰の視線だって気にならないのに、隣にいる人の顔を窺うのが何故だか怖くなってくる。
「だって、ほら。今までも、これからも、最初から最後まで、ずっと一緒にいるんだから……」
「れーくん」
 ふいに耳元で声がして飛び上がりそうになった。彼女がいつのまにか背伸びをして、僕に顔を近づけている。
「な、なんだよ」
「わたし、れーくんのこと好きだなって」
 その笑顔は、月なんかよりもずっと綺麗で、輝いて見えた。
「……僕だって君のことが好きだよ!」
「ざんねーん、わたしの方がずっとずっと大好きでーす」
「それよりずっとずっと、倍の倍くらい大好きだからね!」
「あははっ」
 追いかけると彼女はするりと身をかわし、軽やかにスキップしていく。離れていく影を再びつなぎ合わせるように、僕は彼女を追いかけた。
 志島星礼奈。僕の、世界で何より好きな人。

 ◆

 スマートフォンの通知音で目が覚める。カーテンから見える景色は暗く、どう見たって昼じゃないのはわかる。

『城戸君、今どこにいるの?』

 アリアからメッセージが来ている。何故いつまで経っても待ち合わせ場所に来ないのかと怒っている文面だった。現在時刻、ああ、やばい。
「寝過ごした……」
 返信を入力しながら洗面所に向かい、支度を始める。アリアは待ちくたびれて先に向かってしまったらしい。髪を整え、シワがついた服を着替え、定時の薬を飲む。喉に張り付いた苦みに思わず顔をしかめながら、最低限の荷物を持って家を出た。
 夕方、空はすっかり真っ暗だ。
「月……」
 なんとなく空を見上げるが、月を見つけることはできなかった。代わりに鬱陶しい程の星がめいめいに自己主張をしている。なんだか気に食わず、僕は視線を落とした。
 別に期待していたわけじゃない。いや――多分この先ずっと、僕は月なんか見つけられないだろう。探したところで、もうどこにもないのだ。僕の月は、世界のどこからもいなくなってしまったのだから。
 存在しない月の光に、僕は狂い続けている。