怪物はハコの中に

架空の劇団にまつわる創作に関するものです

Loving dead

「『あなたの全てをいただくことができないのなら、せめて、半分を分けてはもらえないでしょうか』」
 大好きなおはなしの一節を口にする。本は手元にあるけど、開かなくても大丈夫。きっといつだってそらんじられる。
「『あなたの苦しみや悲しさを、わたしが代わることができないでしょうか。あなたの笑顔が、それでずっと保証されるのなら――』」
 すてきな言葉。すてきな詩。文字のひとつひとつだって輝いて見える。
 言葉がきれいなのは、きっと心がきれいな人が書いたから。物語が優しいのは、きっと想いが優しい人が書いたから。
 だからわたしは、あの人とあの人のおはなしが好き。

 

「洗濯までさせられるとかありえなくなーい!?」
 洗濯かごを抱えながら和賀美さんが拗ねている。ここは『ブルトル』スタジオの屋上。物干し竿には既にシーツとよくわからない布切れがかけられ、風にゆらゆらはためいている。
「アタシらのウェアはわかるけどさー、なんで『センセイ』たちのまでやんなきゃいけないのぉ!? ジブンらでやんなさいよ!」
「和賀美さんがいけないんじゃん」
 その隣でさらにぶすくれてるのはゆっこちゃん。頭の上でまとめた可愛いシニョンが揺れている。
「城戸センセーが喋ってるのにいつまでも私語してるからー。あたしたちまで巻き添え食らっちゃったじゃん」
「吉良さんだって城戸の文句言ってたでしょ……。連帯責任だよ」
「二見さんまでー!」
 むきー、とばかりに腕を振り上げ怒りをアピールしているゆっこちゃん。まあ、みんな言ってたんだけど、やっぱり声が大きくて高い女子が目立っちゃうんだよね。
「早く干しちゃいませんか? 干し終わったら今日はもう帰っていいって言われたし」
 わたしが言うと、和賀美さんはちょっとむっとした顔をしたけど、洗濯かごを床に置いてハンガーを手元に引き寄せた。わたしも洗濯かごから洗濯物を取る。
 すると、ざあっと強い風が通り過ぎた。
「きゃっ……」
 二見さんがとっさに髪を押さえた。その拍子に、持っていたシャツが風にさらわれる。あっという間に、シャツは風に乗ってあさっての方向に飛んでいく。
「ああー……」
「ちょっとちょっと、下に落ちちゃったよ!?」
「見ればわかるよ! ああもう、どうしよう……」
 二見さんが真っ青になる横で、ゆっこちゃんと和賀美さんが言い合っている。シャツは……ひらひら舞っているうちに見えなくなってしまった。
「……わたし、取ってきます」
「えっ?」
「なんでなんで!? 二見さんが落としちゃったんだから、えみちゃんは……」
「早く拾わないと、泥がついちゃうかもだし。すぐ戻ってくるから干してて」
 急いで階段に向かう。早くしないとまた風にさらわれて見つからなくなってしまうかも知れない。
「頑張ってー! あたし、えみちゃんの分まで干してるから!」
「ありがと!」
 屈託のないゆっこちゃんの笑顔に少しだけ胸がちくんとしたけど、気にしないようにして階段を駆け下りた。

 

「えっと……」
 このへんに落ちたと思ったんだけど……。スタジオ脇の並木道を探す。風に飛ばされたんだったら、もうちょっと遠くにあるのかな。
「ないなあ……」
「そこの君」
 生垣をかき分けたりして探していると、後ろから声が聞こえた。
「探し物はこれ、かな」
「あ……」
 振り返ると、そこにはすらりと背が高い男の人がいた。短く整えた爽やかな髪に、細縁の眼鏡がよく似合う。
「藍条……先生」
「ああ、やっぱりブルートループの子か。君は確か……初空えみなくん、だったかな」
 藍条先生はふ、と柔らかく微笑んで白いシャツを差し出した。先生がシャツを拾っていてくれたんだ。いや、それより……。
「知ってるんですか、わたしのこと」
「このあいだの『フラ泥』に出ていただろう? よく覚えているよ。初出演とは思えない、良い演技だった。君こそ……」
 眼鏡の下で少し困ったように目を細め、笑う。
「……『先生』、というのは少し気恥ずかしいよ。そこまでかしこまらなくてもいい」
「あ、あのわたし! 先生のおはなしの……おはなしが、好きで、その!」
 気持ちを伝えようとしたら声が裏返って上手く喋れない。ああ、なんでこんな、こんなときに! せっかく会えたのにこんなふうにテンパってたら変な子だって思われる……!
「あの、その……だから……!」
「……ありがとう」
 しどろもどろになっていると、藍条先生が一歩わたしに近づいた。顔が少し赤い、気がする。
「そんなに褒めてもらえても、あいにく今は何も手持ちがないんだ。せめてペンがあれば……」
「そ、そんな、わたし! なんにも……」
「ああ、そうだ」
 シャツを持っていない方の手が、わたしの手に触れた。ひんやりと少し冷たい感触がする。
「これでお礼、ということにしてくれないか?」
「あ、あ……」
 わたし……藍条先生と握手してる。藍条先生と手を握ってる……!
 あの日みたいに。
「……すまない、もう時間だ。座長と打ち合わせの約束していてね」
「あ……」
 藍条先生の手が離れる。代わりにわたしの手には洗濯物のシャツが。
「君もそのシャツがある。また今度、時間のあるときに話そう」
「……はい」
 藍条先生はゆっくり踵を返し、スタジオの方へ歩いていく。わたしはその背中が見えなくなるまで見つめていた。
 すてきな人。優しい人。あんな人と一緒にいられたら、きっとどれだけ幸せだろう。
 ポケットの中で携帯が通知を鳴らす。画面を見ると、宍上さんからいつものお誘いが来ていた。

 

「『ああ、すてきな人、きれいな人! わかっているのです。わたしでは、とてもあなたと釣り合うわけがない!』」
 口ずさむだけでは物足りなくなって、少し手足を動かしてみる。この台詞のときの“クサビ”さんは、きっと悲しくて悲しくて、でもそれを上回るくらい嬉しかったんだ。じゃあ、きっとこんな風に笑っていたのかな。笑みがこぼれているのに、なんだか泣きそうになってしまって。
 声はきっと震えていて、でも精一杯気持ちを伝えたくて張り上げてるんだ。だから、もうちょっと大きくて、がらがらした声。レッスンのときだと、お腹を使って、鼻腔に通すように声を出すって習ったっけ。足は震えてるから、もうちょっと踏ん張って立たないと、きっと今にも崩れ落ちちゃう。
 ああ――楽しい! きれいなお話に、すてきなキャラクター。それがあんまり愛おしかったから、いつしか読んでいるだけじゃ物足りなくなって、こうして声に出したり、真似したりするようになっていた。どんなに嫌なことがあっても、そうしている間だけは忘れていられる。おはなしを読むときと、演じているときだけは、“生きていられる”ような気がする。
 ずうっと、おはなしの中にいられたら――
「お上手ですね」
 ぱちぱちと拍手が聴こえてきて、はっとした。ベッドで眠っていたはずの宍上さんがからだを起こして手を叩いている。顔がかっと熱くなる
「……見てたんですか」
「声がしたものですから。『フラ泥』の頃からずいぶん上達したんですね。でも、こんな夜更けに練習なんて。熱心なのは良いことですけど」
 ここはおはなしの中じゃなくて、宍上さんのお気に入りのホテル。今は夜中の二時。洗濯物を干し終わって、宍上さんから指定された待ち合わせ場所に行って、それから、わたしは――――ほとんど裸みたいな恰好で踊っていたことに気づいて途端に恥ずかしくなった。
「なかなか寝付けなくて。起こしちゃってごめんなさい」
「いえ。明日は僕もオフですから。せっかくです、付き合いましょうか?」
「別に、大丈夫です」
 ベッドから降りようとする宍上さんに首を振る。宍上さんと一緒に踊るのは、苦手だ。からだに触れられるのは、ベッドの中だけでいい。
「それにしても、今日はいやにご機嫌ですね。何か良いことでも?」
「えっ……」
 指摘されて、慌てて顔に触れる。……別に変わったことのない、いつもと同じ形だ。
 死体みたいに、固まってる。
「そんなこと……ないですけど」
「そうですか。ミュージカルの主人公みたいに踊り出したから、恋でもしたんじゃないかって思いましたけど。まあ、でも、確かに……」
 死んでいたら、恋なんてできませんよね。
 宍上さんが小さな声で呟いた。
「………………」
「そろそろ寝たほうがいいですよ。夜更かしはあらゆる生活に支障をきたしますから。寝付けなくっても、目を閉じていれば身体は休めます」
「……はい」
 本をカバンに戻して、宍上さんの隣、ベッドの中に入る。宍上さんは安心したように笑って、再び横になった。
「あんまり、大きなことは望まない方がいいですよ。閉じたカゴの中で外を見ていても悲しくなるだけだ。死んでいるものは、自由に歩き回れない」
「わかって、ます」
 ここは現実で、わたしは死んでいる、そんなことわかってる。だから――どんなにおはなしが、あの人がすてきでも、わたしはそこには行けない。
 ちくちくする胸を気にしないようにして、わたしは目を閉じて、死体のふりをした。