怪物はハコの中に

架空の劇団にまつわる創作に関するものです

物狂いのインターバル

「『ずっと、ひとりだった――』」
 違う。
 こんなの、彼らしくない。
 舞台上で“アデル”を演じる斎波正己を見て、城戸礼衛は観客席で息を呑んだ。
 斎波は、こんな演技をする男じゃあない。
 叫んでも怒鳴ってもいないのに、客席の最奥までよく響く声。重みを感じさせる一歩一歩の足運びに、否が応でも目を引く仕草。なるほどその動きは斎波特有の、城戸がよく知るそれそのものだ。しかし、違う。動作とか発声とか、そんな表面上のことだけでは説明できない“何か”が明確に違っていた。
(なんだ、何が変わった? いったい彼に、何が起きた?)
 たとえばそう、表情。真面目くさった鉄面皮である普段の彼とは違い、役者としての斎波は長い付き合いの城戸すら驚かせるほど表情豊かだ。……しかしそれはあくまでも演技、彼自身の現在の感情ではないはずなのだ。
(“真実味”がありすぎる)
 笑い、悩み、ときにはかっと頭に血を昇らせたり……そうした“アデル”の一挙手一投足は、奇妙な実感を伴っていた。脚本の流れに応じて発したものではなく、目の前の相手や自分を取り巻く状況によって心から生じたような。だからそれは、“アデル”の振る舞いでもあり、斎波自身の感情でもあるはずで。
(メソッド演技、とかそういう話じゃあないな。これは――)
 城戸自身、その“症状”に何度か陥ったことがあるからこそわかる。
 あれは、狂気だ。
 思い返せば、何度か徴候はあった。あの斎波が、良い子ぶりっ子優等生の斎波正己が『嫌いなもの』として真っ先に挙げるこの城戸に対して何度も電話をかけてきたのだ。今までたまに、引きこもり生活を送っている城戸の生存を確認する電話をかけてくることはあったが、ああして自分のことについてあれこれと相談するのはおよそ初めてである。
 自分を、見失っていたのだろう。
 普段の斎波を知る城戸にとって、冗談ですらそんなことはありえないと否定するような事態だ。思考も行動もすべて、自分が決めたルールに則って動かしている、いわばレールを自ら敷きながら走る機関車のような男だ。ルールにしろレールにしろ、それそのものが根本から壊れない限り、斎波が自失することはありえない。
(………………)
 原因の究明をしても仕方がない。ともあれ――彼は狂気に至ったのだ。
 かろうじて役柄という仮面で体裁を整えてはいるが、そんなものはいつ崩れるかわからない。彼我の“あわい”を失ってしまった今、自分が抱いている感情を制御することも、演じている役の行動と切り離すことも至難の業のはずなのだ。
 つまるところ、いつシナリオを無視して感情のままに暴れだしてもおかしくないのが、今の斎波の状態のはずなのだ。
「ああ……」
 背後から溜め息をつく声が聞こえてきた。感嘆のあまり、思わず漏らしてしまったのだろう。横目で左右の観客の様子を見る。どうやら誰も彼も斎波の異常には気づかずに、彼の異様な迫力に呑み込まれ、心奪われてしまっているようだった。
 確かに――城戸個人としては認めたくない、忌々しい事実であるのだが――アデルを演じている斎波は惚れ惚れするほど美しい。ご自慢の筋肉を何キロ落としたのか、華奢に見えるほど痩せ細った身体。彫りの深い顔に浮かぶ幼い表情のアンバランスさ。ただでさえ長身で目立つ彼だ、一度視線を向ければ目を逸らすのは容易ではない。彼の狂気は皮肉にも舞台を盛り上げる演出の一部となっていた。
 きっと、この舞台は大成功し、盛況を呼ぶのだろう。斎波や相手役の宍上の見た目の良さや演技力はもちろんのこと、楽曲や美術、衣装も大手が製作しているだけあってクオリティが高い。既にSNSでは好評な感想が多数アップされ、早くも再演やDVD化の要望まで見られはじめている。
 けれど、それは千秋楽までつつがなく公演を終えてから考えるべき話だ。
「『ああ、いったいどこから僕達は違ってしまったのだろう――』」
 舞台上ではアデルが“仕事”から戻ってきて、先に寝入ってしまったリュシアンの様子を窺っている。自分が心身を擦り切らせながら必死で金を稼いでいる中、リュシアンは何も知らずに安穏と眠っている――愛しく感じているはずの友に対して、理不尽な憎しみを抱いてしまったことを歌う場面のようだった。
「『最早戻れないのなら――リュシアン、どうか、僕を――』」
 アデルは足音を殺してベッドに近づき、まぶたを閉ざしたリュシアンに覆い被さる。痩せて筋張った手がリュシアンの頬に伸び――ゆっくりと首元へ下りていく。
(確か“原作”じゃあリュシアンにキスしたり、『迫る』場面のはずだけど……)
 手の甲の筋の動きで、そこに尋常でない力が込められているのがわかった。首筋に触れようとする衝動を、理性によって無理矢理押さえつけているような――
 ――ああ、彼を本気で殺してしまいたいのか。
 そう悟ったとき、城戸の背筋にぞくりと怖気が走った。

 

「『フラ泥』、見た?」
 公演を見終わった後、二年ぶりに志島塾同期の浮島に電話をかけた。
「い……いきなりなんですか? 見てないですけど……」
「は? 正気で言ってる? 本当に役に立たないなあ、このコウモリ野郎は……」
「なんで久々の会話でここまで酷い罵倒を聞かされないといけないんですか……?」
 浮島和見。年齢こそ城戸や斎波の一つ上だが、同期生として志島塾で教えを乞うていた彼らに年功序列はない。むしろ、気弱で優柔不断な浮島を城戸が虐め、斎波が叱りつけるような間柄だった。
 浮島とはブルートループの新代表就任以来一度も顔を合わせていないが、この話しぶりを見るに昔とまったく変わっていないようだった。呆れと同じくらいにほっと安心感を覚えたが、それを素直に口にするような城戸ではない。
「二年経ってちょっとは成長したかと思ったら、相変わらずハサミよりも使えない奴だな。幻滅させてくれることに関しては人並み以上の才能だよね。いっそ安心したよ」
「電話を切っても良いって意味なんですよね? 切りますよ?」
 まるで怯えているような口振りだが、このようなやりとりは浮島にとっても日常茶飯事だ。なんだかんだと文句を言いつつも通話が切れず続いているのがその証拠である。
「斎波君の主演舞台だぜ? なんで観ないんだよ」
「気づいたときにはチケットが取れなくなってたんですよ。僕だって自分の舞台の稽古がありますし……偉そうに言ってる礼衛くんだって、僕の舞台は観てくれないじゃないですか」
「いやいや、ちゃんと毎回観てやってるぜ? こないだの、なんだっけ? 『ハムレットによろしく』だったっけ? 面白かったよ」
「『オセローのいない夜』ですよ……絶対観てないじゃないですか」
「なんで君みたいな半端野郎の芝居なんか観に行かなきゃいけないんだよ。思い上がるな」
「せめて最後まで取り繕ってくださいよ……!」
 久々の会話でついつい馴れ合いが盛り上がってしまったが、本題に戻る。
「今日観てきたのさ、その『フラ泥』をね。評判良いし、噂くらいは聞いてるだろ?」
「宍上紅蓮が出てるんですよね? 凄くバズってるみたいですけど、面白いんですか?」
「いかにも女の子ウケ狙ったお耽美って感じさ。主演やらされた斎波君はご愁傷様だね」
 まあ、内容はこの際どうでもいい。
「君んとこ……『マヨヒガ』に元キミドリプロの人って何人かいたよね。宍上紅蓮の話、何か聞いてない?」
 やはりあの男、リュシアン役を演じていた宍上がきな臭いのだ。
 噂に聞く限り『フラ泥』は宍上加入を前提として企画されていたようだし、フラ泥の稽古が始まった頃から斎波の様子がおかしくなった。斎波の異変に宍上が関わっていると考えるのははたして短絡的だろうか?
「ううん……そりゃあ悪口の三つや四つは聞きましたけど……でも、あんまり信用できないですよ? 人のことをとやかく言う人って大体礼衛くん並みに性格悪いですから」
「そういうこと言ってる時点で君も同レベルなんだよ。……信憑性は低くてもいいや。どんな話があるんだい?」
「ええと……性格が悪いだとか、女たらしだとか……仕事を“枕”で取ってるとかはよく聞きましたね」
「枕ねえ。まさかおっさん相手に?」
 そういう話は古今東西聞くが、伝聞を鵜呑みにしていいものか。
「だから、あんまり信用しないでくださいって。あとは、そうだな……だいぶ下品な話なんですけど、さ、“さげナントカ”とか言われてましたね」
「……あー、付き合った女が破滅しがちってこと?」
「宍上くんと付き合った女の子はみんな大成しない……みたいなジンクスがあるらしくて。ほ、本当のところは知らないですよ?」
「芸能界なんて大成しないほうが大半だろうからね。下手に顔を知られずに辞めれるならそっちのが案外幸せかも。……それで? 他にはないの?」
「こんなところですね……。女性関係の悪い話はいっぱい出てきますけど、逆に言えばそれ以外のスキャンダルは全然ないみたいです」
 芸能界での交際関係は良くも悪くも話が大きくなりがちだ。アイドルと俳優が熱愛だの、どこぞの芸人が二股だの……注目度が大きいニュースになるからこそ、別のスキャンダルから目を逸らさせるためのスケープゴートとして使われることも多々ある。宍上の話題に女性関係がいやに多いのも、何かのカモフラージュということはないだろうか。
「さっきの話みたいな、周りが不幸になるとかそういう話は?」
「えっ、そんな疫病神じゃないんですから……ううん、全然関係ないかもですけど」
「なんでもいいよ。宍上の悪口が聞ければそれで」
「相変わらず不思議なくらい性格が悪いですね? えっと、だいぶ古い話題なんですけど、十年くらい前かな? 当時子役やってた宍上くんのマネージャーが、何かで逮捕されたって話です。事務所が圧力かけたらしくて、詳しい話は出回ってないんですけど」
「逮捕。そりゃ物騒だ。罪状はなんだい? 殺人? 強盗?」
「礼衛くんの発想のほうが物騒ですよ……? なんだったかな、刃物を振り回したらしいから、銃刀法違反か傷害罪じゃないですか?」
 どこかで聞いたような話だった。まあ、頭をおかしくさせた者が刃物を持ち出すなんてそれこそ慣用句になるくらいありふれた話か。
「ありかとう。参考にさせてもらうよ」
「はい。……あの、礼衛くん?」
「うん、なんだい?」
 これ以上の情報は得られないだろう、と話を切り上げようとすると、今度は浮島のほうから何やら切り出してきた。
「あれから、随分経ちましたけど……まだ、仕事には復帰してないんですか?」
「――ああ、そうだよ。現在進行形で休業中さ」
 答える声が低くなってしまったことを悟られただろうか? 二年前にブルートループを退団した浮島は、城戸がつい最近までどのような状態だったか知らないのだ。どうやら地雷を踏んでしまったらしいと気がついた浮島は慌てたように弁明する。
「も、もちろん礼衛くんが大変なのはわかってますよ? そんなに簡単に元通りになれるような問題じゃないってことも……だけど、やっぱり礼衛くんは劇団に戻ったほうがいいと思うんです」
「へえ。偉そうに人の進退について語れるってことは、万人が納得する立派なご高説を垂れてくれるんだろうね? この僕も感心させて、君宛てに素敵なプレゼントを贈る計画を立てる必要もなくなるような?」
「ひっ!? い、いや、でもですね……」
 脅しつければすぐに黙るかと思ったが、意外にも浮島は食い下がって話を続けた。
「だって、礼衛くんはブルートループが好きなんでしょう? 宍上くんのことをあれこれ探ってるのも、正己くんが心配だからですよね? だったら――自分の目で確かめて、自分の手でなんとかしたほうがいいんじゃないですか?」
 普段なら生意気だと切って捨てるような言葉に対し、なぜだかそのときは反論の言葉を思いつくことができなかった。

 

 実際、あれやこれやと宍上の裏を嗅ぎ回るより、斎波本人に直接聞いたほうが早いに決まっている。
 夜公演が終わり、斎波が帰宅しただろう時間を見計らって電話をかけてみた。
「……風呂かな」
 二コール、三コール。公演中の役者は多忙だ、すぐに出るとは思っていなかったが。七回目のコールが鳴ったら電話を切ろう、と六回日のコール音を聞いている最中に電話が繋がった。
「もしもし?」
「……君か。どうした、明日雪か槍が降るのを教えてくれるのか」
 斎波らしくない、皮肉な言い回しだった。
「今日のマチネ、見たよ。良かった。予想以上の仕上がりだったよ」
「――ああ、ありがとう」
 舞台で声を張ったせいで枯れてしまったのか、異様に抑揚のない声音――声を枯らす? あの斎波が? ありえない。違和感は強まる一方だった。
「君が美少年だなんて、最初に聞いたときはへそで茶を沸かしたもんだけど――なかなか上手いことやったじゃないか。サラダチキンを食べるのはもうやめたのかい?」
「………………」
 深い嘆息。まるで、観念したかのような。
「一目でわかるほど、おかしかったか」
「ああ。変化と成長なんてやつじゃなく、明らかエラってバグってる感じさ。……なあ、何かあった? どうしちゃったんだよ、君」
 のらりくらりとした態度に苛立ち、率直に疑問をぶつける。しかし、返ってきたのはまたもや溜め息だった。
「……斎波君?」
「城戸君。俺は、もう駄目だ」
 溜め息とともに吐き出すように、そんなことを言った。
「千秋楽まで保つかどうかもわからない。ひょっとすると、明日にでも限界を迎えてしまうかもしれない。いずれ俺は、この舞台を――いや、ブルートループを滅茶苦茶にしてしまうだろう」
 淡々と、一人言のように、話し続ける。予想外の反応に、空恐ろしい言葉。面食らい言葉を失った城戸に対し、斎波はさらに言った。
「いや、違うな。俺は自分の意思で、ブルートループを壊そうと思っている」
「……本気、なのか」
 やっとのことで、それだけ言った。聞くまでもないことで、舞台上の彼を見た時点である程度予測できていたことだった。
 けれど――違うだろう。城戸の知る斎波が、どうしてそんなことを言うのか。
 狂気は、そこまで彼を追い詰めてしまったのか。
「君の知る石頭で人間ゴリラの筋肉ブルドーザーは、冗談でそんなことを言うような人間だったか?」
「ゴリラだって嘘くらいはつけるだろ。頭がいかれちまってたら尚更」
「ははっ」
 と、そのとき初めて斎波が笑った。『笑うべきだったから笑った』――『笑う必要があるから内心とは関係なく笑った』。かつては不気味で仕方なかった彼の反射行動に、このときだけは安心感を覚えた。
「いいよ。好きにすりゃあいいさ。そうしないとのっぴきならなくなっちまったんだろ? 僕はこの通り、高みの見物決めこませてもらうから」
 どうあれ、彼の心が決まっているのなら言うことはない。やぶれかぶれでも、狂気の沙汰であろうと、それが斎波自身の意思であるのなら、城戸はそれを笑いながら眺めるだけだ。これがもし、迷いや葛藤の最中であるなら罵りながら頬を引っ叩いてやるところだが。
 狂気の淵に追いやられた者は、他者からの助けの手をつかむことはできない。今もなお狂気から抜け出せない城戸はそれをよく知っている。
(多分、こいつをここまで追い込んだのは宍上紅蓮なんだろうけど)
 この段になって原因にアプローチするのは無意味だろう。たとえ今すぐ宍上の家に乗り込んで件の彼を殺してみせたところで、今さら斎波が正気に戻れるわけはない。当人が腹を決めているのなら、やりたいようにやり、暴れたいだけ暴れてしまえばいいと、善人でも正義の味方でもない城戸は考える。
(最高じゃないか。あのクソ真面目クンが怪獣みたいに大暴れするなんて。見れるもんなら特等席でかぶりついてやりたいね!)
 そんな城戸の内心を知ってか知らずか、斎波は「ああ、そうだな」と頷き、続けた。
「そこで、一つ頼みたいことがあるんだが」
「え、なに?」
「もしも俺が失敗して、ブルートループが無事に残っていたら、プルートループに戻ってきてくれないか?」
 あまりに意表をついた頼みに、城戸は再び呆気にとられた。
「喜ばしいことに、最近新人か沢山入ってきたんだが、反面教え手が不足していてな。枯木さんと葉原さんが頑張ってはいるんだが……いかんせん、生徒が多すぎる」
「なんだそれ。僕によちよち歩きの赤ちゃんみたいな連中の保父さんをやれって?」
「不服か」
「舐めてるの?」
 はは、と斎波はもう一度笑い声を出した。
「認めるのは悔しいが、俺が知る中では君が一番教えるのが上手かったからな。性格の悪さも一番だったが」
「そんな僕か素直に頼まれてくれると本気で思ってんの?」
「それもそうだ。じゃあ、頼み方を変えてみよう」
 そう言って一拍おいたのち、斎波はとびきり演技がかった声で言った。
「僕の代わりに、プルートループを滅茶苦茶にぶっ壊してくれないか」
 長年の腐れ縁からの提案は、即答を迷わせる程度には魅力的なものだった。

 

「新人、ねえ?」
 用が済んだスマートフォンをテーブルに置き、ベッドに身を横たえる。
 気づけばすっかり夜も更け、夕食後の薬を飲み忘れたことに気づく。怠薬は増悪へのショートカットだ。かったるさを堪えて起き上がり、ミネラルウォーターと薬を取りに行く。
(――ああ、あいつがいたな)
 『フラ泥』に出演していた役者の中に、見知った顔がいたのを思い出した。
 真鉄静。
 最後に会ったのは五、六年も前になるか。あの頃相手はまだ小学生で、だから最初は別人と見間違えたのかと思ったが、パンフレットのキャスト欄にもしっかり名前が載っていた。
 何より、あの眼差し。世界のすべてを敵に回そうとするような、ありとあらゆるものを拒絶しているような。まるで我を隠せていないにもかかわらず、役を演じきれていたのは奇跡だろう。あるいは、そのパーソナリティを見越してそれが合う役に抜擢されたのか。
「才能なんかないのに、まだ諦めてなかったのか」
 とっくに別の道を歩んでいるだろうと思っていた。しかし――往生際悪く、未だあがいていたなんて。舌の奥に放りこんだ薬を水で押し流す。嚥下を終えた城戸の口元にはうすら笑みが浮かんでいた。
「指導なんてガラじゃあないけど……身の程知らずちゃん達に“現実”を見せてやれるってなら、なかなか楽しそうじゃん?」
 それから数週間後、斎波は『例の事件』を起こす。そしてまたその数週間後、城戸は休業から復帰し新人の指導役を受け持つことになる。
 狂気から脱したようと思われた城戸だったが、しかし再び狂気に蝕まれ惨事を引き起こすことになるのは、また別の話である。

Loving dead

「『あなたの全てをいただくことができないのなら、せめて、半分を分けてはもらえないでしょうか』」
 大好きなおはなしの一節を口にする。本は手元にあるけど、開かなくても大丈夫。きっといつだってそらんじられる。
「『あなたの苦しみや悲しさを、わたしが代わることができないでしょうか。あなたの笑顔が、それでずっと保証されるのなら――』」
 すてきな言葉。すてきな詩。文字のひとつひとつだって輝いて見える。
 言葉がきれいなのは、きっと心がきれいな人が書いたから。物語が優しいのは、きっと想いが優しい人が書いたから。
 だからわたしは、あの人とあの人のおはなしが好き。

 

「洗濯までさせられるとかありえなくなーい!?」
 洗濯かごを抱えながら和賀美さんが拗ねている。ここは『ブルトル』スタジオの屋上。物干し竿には既にシーツとよくわからない布切れがかけられ、風にゆらゆらはためいている。
「アタシらのウェアはわかるけどさー、なんで『センセイ』たちのまでやんなきゃいけないのぉ!? ジブンらでやんなさいよ!」
「和賀美さんがいけないんじゃん」
 その隣でさらにぶすくれてるのはゆっこちゃん。頭の上でまとめた可愛いシニョンが揺れている。
「城戸センセーが喋ってるのにいつまでも私語してるからー。あたしたちまで巻き添え食らっちゃったじゃん」
「吉良さんだって城戸の文句言ってたでしょ……。連帯責任だよ」
「二見さんまでー!」
 むきー、とばかりに腕を振り上げ怒りをアピールしているゆっこちゃん。まあ、みんな言ってたんだけど、やっぱり声が大きくて高い女子が目立っちゃうんだよね。
「早く干しちゃいませんか? 干し終わったら今日はもう帰っていいって言われたし」
 わたしが言うと、和賀美さんはちょっとむっとした顔をしたけど、洗濯かごを床に置いてハンガーを手元に引き寄せた。わたしも洗濯かごから洗濯物を取る。
 すると、ざあっと強い風が通り過ぎた。
「きゃっ……」
 二見さんがとっさに髪を押さえた。その拍子に、持っていたシャツが風にさらわれる。あっという間に、シャツは風に乗ってあさっての方向に飛んでいく。
「ああー……」
「ちょっとちょっと、下に落ちちゃったよ!?」
「見ればわかるよ! ああもう、どうしよう……」
 二見さんが真っ青になる横で、ゆっこちゃんと和賀美さんが言い合っている。シャツは……ひらひら舞っているうちに見えなくなってしまった。
「……わたし、取ってきます」
「えっ?」
「なんでなんで!? 二見さんが落としちゃったんだから、えみちゃんは……」
「早く拾わないと、泥がついちゃうかもだし。すぐ戻ってくるから干してて」
 急いで階段に向かう。早くしないとまた風にさらわれて見つからなくなってしまうかも知れない。
「頑張ってー! あたし、えみちゃんの分まで干してるから!」
「ありがと!」
 屈託のないゆっこちゃんの笑顔に少しだけ胸がちくんとしたけど、気にしないようにして階段を駆け下りた。

 

「えっと……」
 このへんに落ちたと思ったんだけど……。スタジオ脇の並木道を探す。風に飛ばされたんだったら、もうちょっと遠くにあるのかな。
「ないなあ……」
「そこの君」
 生垣をかき分けたりして探していると、後ろから声が聞こえた。
「探し物はこれ、かな」
「あ……」
 振り返ると、そこにはすらりと背が高い男の人がいた。短く整えた爽やかな髪に、細縁の眼鏡がよく似合う。
「藍条……先生」
「ああ、やっぱりブルートループの子か。君は確か……初空えみなくん、だったかな」
 藍条先生はふ、と柔らかく微笑んで白いシャツを差し出した。先生がシャツを拾っていてくれたんだ。いや、それより……。
「知ってるんですか、わたしのこと」
「このあいだの『フラ泥』に出ていただろう? よく覚えているよ。初出演とは思えない、良い演技だった。君こそ……」
 眼鏡の下で少し困ったように目を細め、笑う。
「……『先生』、というのは少し気恥ずかしいよ。そこまでかしこまらなくてもいい」
「あ、あのわたし! 先生のおはなしの……おはなしが、好きで、その!」
 気持ちを伝えようとしたら声が裏返って上手く喋れない。ああ、なんでこんな、こんなときに! せっかく会えたのにこんなふうにテンパってたら変な子だって思われる……!
「あの、その……だから……!」
「……ありがとう」
 しどろもどろになっていると、藍条先生が一歩わたしに近づいた。顔が少し赤い、気がする。
「そんなに褒めてもらえても、あいにく今は何も手持ちがないんだ。せめてペンがあれば……」
「そ、そんな、わたし! なんにも……」
「ああ、そうだ」
 シャツを持っていない方の手が、わたしの手に触れた。ひんやりと少し冷たい感触がする。
「これでお礼、ということにしてくれないか?」
「あ、あ……」
 わたし……藍条先生と握手してる。藍条先生と手を握ってる……!
 あの日みたいに。
「……すまない、もう時間だ。座長と打ち合わせの約束していてね」
「あ……」
 藍条先生の手が離れる。代わりにわたしの手には洗濯物のシャツが。
「君もそのシャツがある。また今度、時間のあるときに話そう」
「……はい」
 藍条先生はゆっくり踵を返し、スタジオの方へ歩いていく。わたしはその背中が見えなくなるまで見つめていた。
 すてきな人。優しい人。あんな人と一緒にいられたら、きっとどれだけ幸せだろう。
 ポケットの中で携帯が通知を鳴らす。画面を見ると、宍上さんからいつものお誘いが来ていた。

 

「『ああ、すてきな人、きれいな人! わかっているのです。わたしでは、とてもあなたと釣り合うわけがない!』」
 口ずさむだけでは物足りなくなって、少し手足を動かしてみる。この台詞のときの“クサビ”さんは、きっと悲しくて悲しくて、でもそれを上回るくらい嬉しかったんだ。じゃあ、きっとこんな風に笑っていたのかな。笑みがこぼれているのに、なんだか泣きそうになってしまって。
 声はきっと震えていて、でも精一杯気持ちを伝えたくて張り上げてるんだ。だから、もうちょっと大きくて、がらがらした声。レッスンのときだと、お腹を使って、鼻腔に通すように声を出すって習ったっけ。足は震えてるから、もうちょっと踏ん張って立たないと、きっと今にも崩れ落ちちゃう。
 ああ――楽しい! きれいなお話に、すてきなキャラクター。それがあんまり愛おしかったから、いつしか読んでいるだけじゃ物足りなくなって、こうして声に出したり、真似したりするようになっていた。どんなに嫌なことがあっても、そうしている間だけは忘れていられる。おはなしを読むときと、演じているときだけは、“生きていられる”ような気がする。
 ずうっと、おはなしの中にいられたら――
「お上手ですね」
 ぱちぱちと拍手が聴こえてきて、はっとした。ベッドで眠っていたはずの宍上さんがからだを起こして手を叩いている。顔がかっと熱くなる
「……見てたんですか」
「声がしたものですから。『フラ泥』の頃からずいぶん上達したんですね。でも、こんな夜更けに練習なんて。熱心なのは良いことですけど」
 ここはおはなしの中じゃなくて、宍上さんのお気に入りのホテル。今は夜中の二時。洗濯物を干し終わって、宍上さんから指定された待ち合わせ場所に行って、それから、わたしは――――ほとんど裸みたいな恰好で踊っていたことに気づいて途端に恥ずかしくなった。
「なかなか寝付けなくて。起こしちゃってごめんなさい」
「いえ。明日は僕もオフですから。せっかくです、付き合いましょうか?」
「別に、大丈夫です」
 ベッドから降りようとする宍上さんに首を振る。宍上さんと一緒に踊るのは、苦手だ。からだに触れられるのは、ベッドの中だけでいい。
「それにしても、今日はいやにご機嫌ですね。何か良いことでも?」
「えっ……」
 指摘されて、慌てて顔に触れる。……別に変わったことのない、いつもと同じ形だ。
 死体みたいに、固まってる。
「そんなこと……ないですけど」
「そうですか。ミュージカルの主人公みたいに踊り出したから、恋でもしたんじゃないかって思いましたけど。まあ、でも、確かに……」
 死んでいたら、恋なんてできませんよね。
 宍上さんが小さな声で呟いた。
「………………」
「そろそろ寝たほうがいいですよ。夜更かしはあらゆる生活に支障をきたしますから。寝付けなくっても、目を閉じていれば身体は休めます」
「……はい」
 本をカバンに戻して、宍上さんの隣、ベッドの中に入る。宍上さんは安心したように笑って、再び横になった。
「あんまり、大きなことは望まない方がいいですよ。閉じたカゴの中で外を見ていても悲しくなるだけだ。死んでいるものは、自由に歩き回れない」
「わかって、ます」
 ここは現実で、わたしは死んでいる、そんなことわかってる。だから――どんなにおはなしが、あの人がすてきでも、わたしはそこには行けない。
 ちくちくする胸を気にしないようにして、わたしは目を閉じて、死体のふりをした。

五分の魂

 ぼくの身体はコルク板の上。ニヤニヤと笑う目がぼくを見下ろしている。
「芋虫にさあ、目玉みたいな模様つけてるのいるでしょ。あれ、なんのつもりだと思う?」
 ピンがぼくの腹を貫き、コルク板に突き刺さる。声は出なかった。声帯なんて生まれつき持っていないみたいだった。
「蛇だよ、蛇! 自分達を狙う鳥の、天敵の擬態をしてるってわけ。おかしいだろ? あんなちっぽけな身で、一生懸命怪物の真似をして生き残ろうとしてるのさ。健気だよねえ」
 胸に、脚に、首に。ピンがぶすぶすとぼくの身体に刺さっていく。痛い、いたい――なのに、涙も、血すらも出ない。
「でも――所詮はただの芋虫だ」
 ぼくの周りには同じようにピンで固定された虫達がお行儀よく並んでいる。ああ、そうか――だからぼくはこんなに小さくて醜い形をしているのか。
「君ってそんな感じなんだよね。必死でイキってるけど、しょぼくて薄っぺらで、中身がない。真似事のままごとはなんの意味もないってわかってる? 大人しく草むらにでも隠れてたらいいのに、無理して目立とうとしちゃってさ。このままじゃ君、どうなると思う?」
 ぼくをしまった箱の蓋がゆっくり閉まっていく。世界が狭くて暗い、息苦しい。……こんなの嫌だ。こんなの、まるで……
「食われて死ぬか、潰されて死ぬか……それとも、僕がここで終わらせてあげるほうが『幸せ』かもねえ?」
 それきり、世界はついに静かになった。まるで、ぼく一人しかいなくなったみたいに。


 「いやだあああああああああああああああああああああああっ!」


「うるさい!」
 怒鳴り声とともに、世界が急に明るくなる。前髪を鼻まで伸ばした根暗そうな男が、今にもぼくに掴みかからんとしている。
「あ、あれ? 浦倉くん? なんで?」
「ここは僕の家です! 君がいきなり押しかけてきたんじゃないですか!」
 ああ、そうだったっけ……布団代わりのバスタオルをどかして起き上がる。趣味の悪い時計は三時を指している。
「ごめん、目が覚めたら真っ暗で驚いて……」
「真夜中ですからね。僕、明日朝から講義あるんですけど」
 家主の浦倉くん――ブルートループの照明スタッフで、ぼくと同い年だ――が恨めしげな目を前髪から覗かせる。元々お化けみたいな顔だから、夜中だといっそう不気味に見える。
「まったく……一晩だけっていうから泊めたのに、もう三日目で、しかもこれですか……。さすがにいいかげん迷惑なんですけど。そろそろ出てってくださいよ」
「そんなこと言わないでよ。オレの分の生活費出してあげてるんだから」
「当たり前のことを押し付けがましく言わないでください」
 なんだよ、家賃がほとんどタダみたいなボロアパートに住んでるくせに生意気な。
「しょうがないなあ。日頃の感謝の気持ちを込めて情熱的にハグしてあげるよ!」
「出ていけ」
 バスタオルごと蹴られそうになった。
「わーっ! わーっ! 今のナシナシ!」
「じゃあ明日には出てってくださいね」
 本当に生意気な奴。エロ雑誌買う度胸ないから青年誌のエロ漫画オカズにしてんの知ってるんだぞ。
「実家に戻るなり、新しい部屋探すなり……ていうか、家の人と喧嘩したから家出なんて中学生じゃないんですから。さっさと謝って帰ればいいじゃないですか」
「嫌だよ。あいつ頭オカシーから、話し合いなんて通じないの。もうあんな奴と一緒に生活なんてできないね」
「またそんな中学生みたいなこと……」
 中学生みたいなエロラノベ読んでる浦倉くんが鬱陶しそうに溜め息をついた。
「ねー、頼むよマコくん~。あと二、三日だけさあ~。そしたら本当に出てくからさ~」
「うわっ、気持ち悪い呼び方しないでくださいよ。いや触んないでください、ほんとキモい」
「お願いってば~」
 ひとしきり縋り付いて泣き喚いてみたけど効果はないみたいだった。本当に冷たい奴だ。
 そういうところを気に入ってるんだけどさ。
「……ねえ、城戸ってどう思う?」
「は? 城戸ってあの……こないだからレッスンに入ってる?」
「あいつさー、なんかヤな感じしない? 人を見下してるっていうか、見透かしてるっていうか」
「はあ……」
 どろりと濁った眼が戸惑ったようにぼくを見つめる。人間に怯えて、世界を憎んでいる色。ぼくと同じだ。
「……そんなの、あの人に限った話じゃないでしょう。僕らみたいな何もない若者のこと、みんな軽んじてますよ、あそこの人達は」
「……うん、そうだね」
 みんなそうだ――みんな勝手にぼくらの中身を決めつけて、つまらない箱にしまおうとする。何もかもわかってるみたいな言い方をして。
 ぼくのことを見てもいないくせに。
「早く出世して、馬鹿にしてきた奴らを見返せるくらいに成ってやろうね」
 ぼくの言葉に浦倉くんは眩しそうに目を細めて唸っているような声を漏らした。
「ていうか、早く寝たいんですって」
「あーはいそうねそうね。お子様マコくんはもう寝たいよね。うわっ、もう三時? 夜更かししたら駄目だよマコくん~」
「うるさい」
 ぱちんと電気が消える。全然つれない浦倉くんに舌打ちをして、ぼくも再びバスタオルを被った。
 暗いのはやっぱり嫌だ。

ルナティック・フォー・ユー

 レッスン帰りに見た夕空は、いやに大きい月が丸く煌々と輝いていた。
「お月様がきれいだね」
 何時間も踊り、歌い続けていたはずの彼女はまるで疲れを感じていないようにスキップしながら空を見上げている。彼女にそう言われると、なんでもないはずの月が彼女のためにあつらえたように綺麗に見えた。
「ほんと、狂いそうなほど光ってるね」
「狂う?」
「月の光を浴びると気が狂うって話があるんだよ。とりわけこんなに大きくて光る月じゃ、さ」
 なんとなく意地悪なことを言ってみたが、彼女は「なにそれー」とおかしそうに笑うだけだった。
「狼男になっちゃうってこと?」
「どうする? ここで僕がオオカミになって君を食べちゃったりして」
「わたしは食べても美味しくないよー?」
 くすくす笑う彼女の腕をわざと掴んで唸って見せると、彼女は一層ふざけて悲鳴をあげた。
「きゃー、れーくんこわーい!」
「がおー!」
「あはははっ!」
 道路でじゃれついていると、通りすがったサラリーマン風の通行人からいかにも鬱陶しそうに咳払いをされた。二人で顔を見合わせ、再び歩きだす。
「……でも、星が見えないや」
 彼女は空を見上げながら、独り言のようにそう呟いた。
「まだ時間が早いからじゃない? 月が昇ってるったって、まだ夕方なんだから」
 確かに、空には月以外、ほとんど光るものが見えない。普段そんなに夜空なんて見ないから、こんなものかとしか思わないが。
「大体、ここは低地だしそこそこ都会でしょ。星なんてそうそう見えないって。スモッグだの、ネオンの明かりとか……」
「ううん。月のせいだよ。こんなに明るすぎるから」
 そう言って彼女は、まるで睨んでいるかのように目を細めて月を見つめた。
「れーくん、知ってる? 星を見るときは新月の日の方がいいんだよ」
「え? ああ、聞いたことはあるっけな。天体観測の話?」
「満月は強すぎるんだ。光が明るすぎて、周りの星の光を全部かき消しちゃう。月が明るければ明るい程、星空は台無しになっちゃうんだよ」
 考えたことはなかったけど――理屈としてはそうなるのか。地上からの光にすら容易く輝きを失ってしまうような星だ、同じ空にもっと輝く光があればそんなもの、まるで最初からなかったみたいに潰されて見えなくなってしまうだろう。実際にあったとして、それを見上げる僕達の目はそれを見つけられるほど精密じゃないのだから。
「もったいないねえ。せっかく綺麗な月があるんだから、周りの星も見えればもっと綺麗な空になるんだろうに――」
「うん」
 月に照らされている彼女の顔は、何故だか翳って見えた。
「れーくん。空にはね、たくさん星があるんだよ? 数え切れないほど……色も大きさも違うけど、みんなきれいで、一つ一つにちゃんと名前があるんだ」
「途方もないねえ。数えてるだけで一生が終わっちゃいそうだ」
「月も綺麗だけど、でも、月があるとその全部を台無しにしちゃうんだ。たくさんの星の光の押し潰して、一人っきり、暗いだけの空に光ってる。たった、ひとりぼっちで」
「ふぅん――」
 満月は徐々に地平線から離れ、中天へと昇って行こうとしている。自分の輝きの強さを知ってか知らずか。
「でも、それはしょうがないじゃん。月も星も、そういう風になってるんだからさ。新月になれば星も見えるんだろ?」
「うん、それはそうなんだけどね――」
 彼女の頬が、きらりと光った。

「なんだか、寂しいなって――わたしが月だったら、そう思う気がするんだ」

「君は……セレナは寂しいの?」
「わたしじゃないよ。お月様の話」
 彼女はくすくす笑う。空笑いだ。
「ごめん、変なこと言っちゃった――」
「寂しくなんかさせないよ」
「え――?」
 足元に出来た長い影を蹴りながら歩く。二人で並んで歩くと影同士がくっついて、まるで見知らぬ化け物のような形になる。
「こんなに綺麗な、何よりも素敵な人を、ひとりぼっちになんてさせるもんか。周りに誰もいなくなろうと、僕はずっと隣にいる。一秒たりとも目を離さず、ずっと、永遠にだ。何があろうと離れてなんてやるもんか。たとえ嫌われようと、嫌がられようと、ずっと君のそばにつきまとってやるんだ――」
「……れーくん」
「――って、僕が地球だったら言ってやるんだけどな」
 頬が熱いのは、きっと長台詞を息継ぎなしで言って酸欠になったせいだ。舞台の上なら誰の視線だって気にならないのに、隣にいる人の顔を窺うのが何故だか怖くなってくる。
「だって、ほら。今までも、これからも、最初から最後まで、ずっと一緒にいるんだから……」
「れーくん」
 ふいに耳元で声がして飛び上がりそうになった。彼女がいつのまにか背伸びをして、僕に顔を近づけている。
「な、なんだよ」
「わたし、れーくんのこと好きだなって」
 その笑顔は、月なんかよりもずっと綺麗で、輝いて見えた。
「……僕だって君のことが好きだよ!」
「ざんねーん、わたしの方がずっとずっと大好きでーす」
「それよりずっとずっと、倍の倍くらい大好きだからね!」
「あははっ」
 追いかけると彼女はするりと身をかわし、軽やかにスキップしていく。離れていく影を再びつなぎ合わせるように、僕は彼女を追いかけた。
 志島星礼奈。僕の、世界で何より好きな人。

 ◆

 スマートフォンの通知音で目が覚める。カーテンから見える景色は暗く、どう見たって昼じゃないのはわかる。

『城戸君、今どこにいるの?』

 アリアからメッセージが来ている。何故いつまで経っても待ち合わせ場所に来ないのかと怒っている文面だった。現在時刻、ああ、やばい。
「寝過ごした……」
 返信を入力しながら洗面所に向かい、支度を始める。アリアは待ちくたびれて先に向かってしまったらしい。髪を整え、シワがついた服を着替え、定時の薬を飲む。喉に張り付いた苦みに思わず顔をしかめながら、最低限の荷物を持って家を出た。
 夕方、空はすっかり真っ暗だ。
「月……」
 なんとなく空を見上げるが、月を見つけることはできなかった。代わりに鬱陶しい程の星がめいめいに自己主張をしている。なんだか気に食わず、僕は視線を落とした。
 別に期待していたわけじゃない。いや――多分この先ずっと、僕は月なんか見つけられないだろう。探したところで、もうどこにもないのだ。僕の月は、世界のどこからもいなくなってしまったのだから。
 存在しない月の光に、僕は狂い続けている。

悪魔が戻りて

 劇団ブルートループの若きエース、斎波正己の暴力事件による波紋は、入団から日の浅い新人団員や若手俳優達にも広がっていた。
「マジであの人、殴ったん?」
「知らなぁい。でも紅蓮クン、怪我してたってぇ」
「これからウチらどうなんのよ……暴力野郎と同じ劇団なんてヤな目で見られるじゃん……」
 ああ、嫌だなあ、と初空えみなは小さい溜め息をついた。ここ数日、劇団内は事件の後始末や何やに追われ、若手以外は昼夜駆けずり回っているような状況だった。指導に回れる人間もおらず、初空達新人は自主練習を言い渡されていたが、不安な状況で放っておかれるこちらも呑気ではいられない。毎日なんとなしに集まっては、少々の稽古をした後、先日の事件の噂や今後の不安について囁き合う、という有様になっていた。陰口みたいな真似はやめよう、真面目に稽古をしよう、と言いたいところだが、初空にそんな声をあげる勇気はない。初空自身、不安で練習に身が入る心持ちではなかった。
「ふん、あんないけ好かない奴、いつかそうなるって思ってたさ。殴られたナントカさんは可哀想だけど、あんな偉そうで乱暴な奴がいなくなって万々歳だよ」
 その中でもひときわ大きな声で中傷を言っていたのは初空と同期で入ってきた伊櫃だった。ダンスが得意で、先日の公演でもかなり目立つ役を貰っていたが、良くも悪くも主張が激しい青年だった。今も声高に斎波の凶悪さについて訴えていたが、周りからは白い目で見られている。
「……あいつが他人に拳を振るう人間だとは思えんが」
 そんな伊櫃を見かねたようにぼそりと呟いたのは真鉄、初空と同い年だが数年前から劇団に所属しているらしい。少し背が低いものの、人目を惹く端正な顔立ちと綺麗な歌声が印象に残る。伊櫃よりも重要な役を演じ、それ以来彼とは緊張感のある関係になっている。真鉄の発言に伊櫃はわかりやすく不快そうに顔を歪めた。
「は? 何それ、『僕は他の人より劇団のことをよく知ってますよ』アピール? 古参ぶりたいなら外出てマスコミ対応手伝ってあげればぁ?」
「知りもしない人間のことを悪しざまに罵るほど育ちが良くないだけだ。口を開けば他人の罵詈雑言、両親から良い教育を受けたようだな」
「なんだと、このっ……」
「や、やめましょうよ!」
 今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気に慌てて割って入る。今ここで第二の暴力事件を起こされたらたまったものではない。そんな初空を、二人は忌々しそうに見つめた。
「何? 関係ない話にしゃしゃらないでくれる? いい歳して委員長気取り?」
「お前がこのどうしようもない阿呆の口を塞いでくれるのか? そうでないなら黙っていろ、中途半端に口を出すな」
 二人から同時に責めたてられ、初空は泡を食う羽目になった。周囲の人が同情する顔でこちらを見ているが、止めてくれる様子はない。せっかく勇気を出してもこれなのだ。他人と関わってもろくなことがない。
「なんで黙るの? なんとか言ってみろよ」
「あ、あの……その……」
「ちっ……偽善者め。身の程知らずに口を出すな……」
「はーい、そこまでー」
 ぱん、ぱんと手を打つ音が聞こえた――ちょうどレッスンのときの合図のような。はっとして振り向くと、稽古場にいつの間にか誰か入って来ていたらしい。ざわめきが止む。立っているのは中肉中背の、平凡な見た目の青年だった。強いて言えば少し落ちくぼんだ眼が不気味に見える、程度の特徴しかない。
 誰だあれ、知らない人、とささやく声が聞こえる。初空には見覚えがあった。最近はほとんど姿を見せていなかったが、確かあの人も団員だったはずだ。去年の公演で斎波とも共演していたはず……。
「こんにちは、初めまして。とりあえず、自己紹介から始めさせてもらうね」
 男が喋りだす。なんのてらいのない台詞になぜか聞き入り、男の話に耳を傾けてしまう。ああ、この人は喋り慣れているんだ、と初空は思った。
「僕は城戸礼衛。皆さんのほとんどは知らないだろうけど、僕も一応ブルートループの団員をやっています。事情があって少しお休みさせてもらってたけど、今度から皆さんの指導に当たらせてもらうことになりました。休みがちではあったけど、これでも少しは腕に覚えがあるつもりです。これからよろしくお願いします」
 一礼。そして、ざわめきが再開する。指導? あんな地味な人が? 半信半疑、といった声が飛び交う。初空はふと真鉄の方を見た。疑問とは少し違った、驚きと不快が入り混じった複雑そうな顔をしている。
「はーい、質問」
「はい、名前と年齢」
 挙手し、指された伊櫃はいかにも馬鹿にしたような顔つきで男をねめつけた。
「十九歳、伊櫃築也。……悪いけど、こっちはあんたが演ってるところ全然見たことないんだけど? 本当にできるの、指導?」
「はい君、態度最悪。座長さんに伊櫃って子が年上に対しての礼儀もわきまえない生意気の粋がりくんだって伝えておくね」
「はぁ!?」
 笑顔でばっさりと切り捨てられた伊櫃は怒りと焦りが混じった声をあげた。
「ていうかさ、君達まだ役者初めて一、二年、多くて三年ってところでしょ? 部活でやった? 入賞した? ああそう、結構。でもそれ、所詮『子供が思い出作りで頑張った』程度でしかないでしょ? 君達が今やってるの、お仕事なの。見てもらうのは学校の先生や審査員じゃなくて、お客様。自分の演技に値段もつけたことがないヒヨコちゃん達が偉そうに講師を選べる立場かな?」
「なっ、そっ……お前……!」
「僕がこっちに入らせてもらった理由、みんなにもわかるよね?」
 言い負かされ、二の句が継げない伊櫃を無視し、城戸と名乗る男が続ける。最初よりも言葉が柔らかく、馴れ馴れしくなっていたが、新人達はそんなことを気にする余裕もなかった。
「斎波君が事件沙汰を起こして、それの始末で人手が足りなくなったからだね。今ね、結構大ピンチなんだよね。君達も最近マスコミに絡まれたりしてない? ただでさえ忙しいのに、今まで一線で頑張ってきた斎波君が離脱しちゃったときた。さて、劇団の偉い人達はこの穴をどうやって埋めようと思っているでしょうか。……真鉄君?」
 城戸が指差す。挙手をした様子のない真鉄は鬱陶しそうに舌打ちをして答えた。
「半人前の奴らをさっさと育てて手がかからないようにする……あわよくばそいつらで『穴埋め』ができれば万々歳、そんなところか?」
「うん、その通りだ。だからはっきり言っちゃうとね、現状君らは足手まといなの。さりとて切り捨てるわけにもいかないから、はやく一人前になって斎波君レベル……まではいかなくとも、しっかりお仕事できるようになってほしいんだ。はい、そういうわけで僕が君達を一人前になるまでサポートします」
 初空はすっかり呆気にとられていた。多分、城戸の言うことは全部正しいのだと思う。しかしここまではっきりと言われたのはほとんどなかった。面と向かって、使えない奴、何もできない子供であるのだと……。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 誰かが声を上げた。初空とは交流がなかったが、他の女子達の中心人物の女子大生だ。城戸のあけすけな物言いに怒りを隠さない様子である。
「あんたが年上で、年長だからって、もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃないの!? あんたみたいな口の利き方する奴に指導なんて受けたくないよ!」
「うん、いいよ。じゃあ帰って。こっちも願い下げだから」
「なっ……!?」
 城戸はまたしても、薄ら笑いを浮かべてばっさりと切り捨てた。
「言ったでしょう? うち、今余裕全然ないから。至れり尽くせり、上げ膳据え膳じゃないと教えられたくなーい、っていうお姫様をお世話する暇ないんだって。気に食わないならどんどんやめてって。うちのやり方が合わないなら、別のところを探して。君が抜けた分、他の子達に力が注げるし、僕も大歓迎」
「ちょっと……待ってって……」
「この際だから聞いとこうか。他に、やめたい人いるかな?」
 城戸の視線がゆっくりと、新人達を通過する。……非常に居心地が悪い。動物園の檻の中に入れられて鑑賞されているような気分だ。
「役者ってわりあいハードな業界だからね。せっかくモノになっても、才能がなくなったり、プレッシャーで心が折れたりして使えなくなる人、結構いるんだ。この先そういうのに耐えられる自信がないって人は、ここでやめたほうがいいかもしれないよ?」

「それこそ……斎波君みたいに心を壊して人を殴っちゃったりしないようにね」

 しばらく、時が止まったようだった。気が付くとぱらぱらと何人かが稽古場を出て行き、新人達の数が最初の三分の二ほどになっていた。その中にはいらいらと二の腕を掻いている伊櫃や、不機嫌そうに顔を背けている真鉄もいる。もちろん、初空自身も。
「……今ここにいる子達は、僕が言ったことをある程度覚悟したうえで続けるつもりでいるってことでいいのかな?」
 にたにたと、気味の悪い笑みを浮かべて城戸が言った――最初に感じた普通そうな、地味そうなイメージは、今や完全に払拭されている。
 この人はおかしい、異常だ。
「それじゃあ、レッスンを始めようか」
 ぱん、と手が打ち鳴らされた。


   *


「城戸君、どういうこと?」
 レッスンを終え、座長室を訪れた城戸を、座長・志島亜理愛はいの一番に怒鳴りつけた。
「なんのことかな?」
「とぼけないでちょうだい。今さっき、何人かここに来たわ。『新しい指導者に脅された、もうやめる』って……あなた以外に誰がいるの?」
「ああ、ちょっと言葉が過ぎちゃったかもだね」
「城戸君」
 はあ、と志島が溜め息をつく。その顔にはここ数日の疲労とストレスが色濃くにじんでいる。
「私はあなたに新人の指導を頼んだのだけど。新人達を追い出してほしいって聞こえていたのかしら?」
「いやいや、ちゃんと君の指示通りにやっているよ。ただ……『人格と素行に問題がある』僕にわざわざ頼んだんだから、僕のやり方でやらせてくれるかと思ったんだけど」
 志島は苦虫を嚙み潰したように城戸を見ていた。彼女が自分を嫌っていることはとうの昔から知っている。
「……あなたに頼んだのは、他でもない斎波君の推薦があったからよ。多少の問題はあれど、あなたならやってくれるって……」
「ふうん、あいつの意見を聞いたの? 君の期待を裏切った斎波君の」
「城戸君!」
「ごめんごめん」
 へらへら、半笑いで謝る。志島は再びふうっと溜め息をついた。
「……お願いだから、くれぐれも慎重に、穏便にやってちょうだい。もしまた事件みたいなことが起こったら、劇団の今後に関わるわ。あなたも処分しなくちゃいけないことになる」
「わかってますよ。僕はあいつみたいなヘマはしない。きっちり、頼まれただけの仕事はするさ」
 ひらひらと手を振りながら踵を返す城戸。
「あ、ちょっと! まだ話は……!」
「お説教ならラインで送っといて。後で読んどくから」
 そう言い残しさっさと出て行った城戸に、志島は三度目の溜め息をつく。なぜあんな男を斎波が指導役に推したのか。そして何より、彼の力を借りざるをえない劇団の現状に、ただただ嘆くしかなかった。

枯木忠高の小規模な懊悩

 斎波が『ああ』なってからしばらく、ブルートループ内はひどいもんだった。
「正己くん、どうしてあんな……」
「もうやめましょうって。起こったことはどうしようもできないんですから」
 特にショックを受けていたのは俺と同じ、先代座長時代から残留していた“古参組”だ。何せ斎波と言ったら若手ながらも古参組を引っ張るエース格だった。団員が次々やめていく中、あいつが表立って残留組を奮い立たせてなんとか劇団の体裁を保たせていた。思わず目を逸らしたくなるくらい真面目で誠実、公明正大なあいつが、まさか新入りに暴力を振るうなんて。
「……まあ、あいつも色々溜め込んでたんだろ」
 落ち込んでひたすらクダ巻いてる皆が見るに堪えず、俺はとりあえずそれらしいことを言ってみる。言ってから、「ああ、こういうときこそあいつが皆を先導していたんだったな」と思い出し、尚更気分が落ち込む。
「あいつに頼ってばっかで……あいつが弱ったとき、受け止める準備ができてなかった。俺達にも問題はあったんだよな」
「そうよねえ。正己くん、わたし達より年下だったのに……」
 まずった。空気を変えるはずが、さらにどんよりさせてどうするよ。薄川が「余計なことすんな」とばかりに睨んでくる。
「もう、過ぎたことじゃないですか! そういうことは後で話し合いましょうよ! せっかく公演自体は大成功したんだし、まずはそれを喜びましょうって!」
 そうは言うが、その成功も斎波のスキャンダルで大部分おじゃんだ。これからしばらくスタジオや稽古場はパパラッチまがいのマスコミが群がってくるだろう。とてもじゃないが喜べるような状況じゃねえ。
「ああ、もう、まったく――」
 どうしてこんなことになっちゃったのかしら。葉原の呟きにああ、そうだなと頷く。
 ほんとう、なんでこんなになっちまったんだか。

 

 やめようと思えばやめられるチャンスは、実のところいくらでもあったんだ。
 最大のチャンスは志島先生が亡くなって――あの可愛げのないお嬢サマ、亜理愛が後を継ぐことになったときだ。
 亜理愛はなんというか、一周まわって同情しちまうくらい、人望ってやつを全然持っていなかった。
 何か悪さをするわけじゃないが、いつもツンケンしてて素直に話しを聞かない奴はそれだけで避けられる。おまけに愛想が良くて素直で“天才”な妹さんがいたわけで、本人も周りもすっかりこじらせちまってた。
 あんな奴が二代目になってもろくなことにはなるまい、そもそもあんなガキについていけるか――そう思った古参団員がどんどん抜けていくのも仕方のない話だった。
 で、俺はというと……この際役者業自体、すっぱり足を洗うつもりでいたんだ。
 ダンスはまだしも、役者の仕事に骨を埋めたいと思うほどの思い入れはなかったし、斎波や城戸みたいな『志島塾の秘蔵っ子』連中ほど才能もない。これを機に、別の道に進んでみようかと考えていたところだった。
 亜理愛が残った団員達に頭を下げに来るまでは。

「私では力不足かもしれません、きっとこれからもご迷惑をおかけすると思います――」
「――それでも、この劇団を継ぎたいんです。この劇団を残したいんです」
「どうか、力を貸してください――」

 まだ大学も出たてのうら若いお嬢さんに、土下座せんばかりの勢いで頼み込まれたんだ。少なくとも目の前じゃ『NO』なんて言いづらい。
 そして、そんな姿を見てうっかり思い出してしまったんだよな。
 あの頃、志島先生に世話してもらった分を、全然返せないままだったことに。

 とはいえ、亜理愛が脚本家と称して自分のオトコを連れてきたときはまずっちまったと思ったな。
 亜理愛は隠してるつもりでいるが、彼女と藍条がデキてるのなんざ公然の秘密だ。責任者と部外者が乳繰り合ってて劇団や事務所が駄目になる話なんて山のようにあるから、あの時は本気で頭を抱えたもんだ。
 しかし藍条の脚本がありがたかったのも事実だ。いつまでも親父さんの遺産を食い潰すわけにもいかねえし、新体制になるからには新しい演目をどんどんやっていかなきゃならん。そこで今をときめくベストセラー作家サマの脚本がどれだけ貢献してくれたか、今更言う必要もないだろ?
 藍条の奴も自分の立場をわきまえていて、俺達に対して脚本家以上の態度を取ることはなかった。部外者で、素人で、だから余計なことには極力口を出さない。多分、団内じゃあ亜理愛より奴の方が人望があるかもだ。
 そんな風にしてるうちに、どん底だった新生ブルートループも徐々に持ち直して、やっと新宿のハコも借りられるようになったわけだが……まあ、こんなことになっちまったんだよな。
「これからどうしましょうね……」
 葉原がまたため息をついた。釣られて俺もため息をつくと、俺達がたむろっていた休憩室の扉がおずおずと開いた。
「失礼します」
「宍上君! 大丈夫なの!?」
 やってきたのはくだんの斎波の被害者、新入り団員の宍上だった。確か斎波に花瓶かなんかで頭を殴られて入院する羽目になってたはずだが……。
「怪我はいいのか?」
「ほとんどかすり傷でしたから。検査で入院してましたけど、お医者さんがもう大丈夫だって」
「良かったぁ……大事にならなくて……」
 額に小さいガーゼを貼ってはいるが、それ以外に怪我はなさそうだ。劇団や斎波のキャリアに傷がつく以外にも、この色男に万が一のことが起きていればとんでもないことになっていた。無事で何よりだ、ほんとうに。
「……すみません。お話、少し聞こえちゃったんですけど……」
「斎波君の話? 良いのよ、宍上君は何も悪くないんだし……貴方が気にすることじゃないわ」
「いえ……斎波さんがあんなに思い詰めたのって、やっぱり僕のせいなんじゃないかって心当たりがあって」
 神妙な顔をする宍上。二枚目はどんな顔をしててもサマになるから腹が立つ。
「本当に、なんてお侘びしたらいいのかわからないんですけど……申し訳ありません」
「こっちこそ貴方に謝らなきゃよ! 宍上君ったら……」
「そうだ、謝り合戦はこれでやめにしとこうぜ。これからのことを考えるのが先だ」
 そういうと、宍上は「そうですね」と頷いた。
「こんな風にしてしまって言うのもなんですけど……僕、精一杯頑張ります。ブルートループの団員として、できる限り力になります」
「それもお互い様よぉ、紅蓮くん。これからも一緒に頑張りましょうね?」
「はい!」
 澱んでいた空気がすっかり晴れていた。皆、宍上という新しいエースに期待をかけているらしい。次々と宍上と激励の言葉を交わしている。
「枯木さんも、どうかよろしくお願いしますね?」
「……お、おう。よろしくな」
 宍上に手を握られ、反射的に頷いた。そのせいで、「いいかげん、今度こそ辞めてやろう」と懐に入れていた退団届を出しに行くのをすっかり忘れちまった。