変わらぬ愛を求めて
嫌いという感情は、きっと自分自身を守るためにあるのだ。
多くのものを好きでいるには、人間の心はあまりに小さい。
薄暗がりのカーテンコール。拍手喝采は、起こらない。
当然だ。舞台上には私しかいないのだから。
「『志島の娘』もこの程度か」
観客席から失望の溜め息が聞こえる。
「期待外れだったなあ」
「いくら父親が凄くてもねえ」
「才能ばっかりは遺伝しないか」
何百対もの目が私を見る。哀れみ、呆れ、落胆、冷笑――そのどれもが言外にこう告げていた。
お前は出来損ないだ。お前は志島青児の娘に相応しくない。
「これじゃあ親父さんも草葉の陰で泣いてるだろうな」
「妹の方が出来が良かったのに――」
私は耐えきれなくなって舞台袖へ逃げだした。知っている。そんなこと、私が一番よくわかっている。
舞台裏にひと気はない。暗がりにぽつんぽつんと誘導灯が浮かんでいるだけだ。照明係は? スタッフは何をしているんだろう。乾さんはどこへ行った? 誰もいない。誰も私を迎えに来てくれない。
「また、逃げ出したのか」
誰もいないはずの後ろから声がした。訊ねている声音でも咎めるわけでもない、ただ事実を言っただけの声。斎波君の声を聞くたび体が竦むようになったのはいつからだろう。
「すっかり変わってしまったな。以前の君は、そんな人じゃあなかった」
「……変わってなんかいないわ。私は私よ」
「だったら」
斎波君が私の腕を掴み、振り返らせる。痩せ細った腕に、酷く澱んで落ちくぼんだ目。服が血で赤く染まっている。
「だったらなんで、私を見捨てたんだ」
「――ッ」
「君は私より劇団を取った。僕を踏み台にして自分の名声を選んだ。それが本来の君だったのか」
斎波君の顔がどろどろと溶けて、違う顔へと変わっていく。私は思わず彼の腕を振り払った。父の顔が私を恨めしげに見つめる。
「また私を捨てるのか? 亜理愛」
「やめて……!」
私は暗闇へと駆け出す。最早誘導灯すらない、黒い静寂だけが広がっている。
逃げなければ。
――どこへ?
誰か助けて。
――一体誰が?
「可哀想なお姉ちゃん」
何かにぶつかって動けなくなる。違う、抱きしめられたのだ。捕まえられたのだ――
「だって、お姉ちゃんには何もない。だから誰も助けてくれない。可哀想ね。わたしは全部持ってるのに」
「やめて、やめて星礼奈――」
「お姉ちゃん。あーちゃん」
なんであなたが生きてるの?
「……アリア、亜理愛!」
「あ……」
目を開けると彼の顔が見えた。ああ、夢だったのか。当然の事実に脱力する。体温がいやに上がって、彼の手がひやりと冷たく感じる。
「遼基さん」
「まだ夜だ……ひどくうなされていたようだから起こしてしまった。凄い汗だ、大丈夫か?」
「大丈夫よ……」
悪夢を見ただけ。そう告げるだけなのに、なぜか言葉が詰まる。悪夢。そうだ、あんなの全部、あるはずないのに。
「……水を持ってこよう。少し落ち着くはずだ」
「待って」
ここにいて。そう呟くと遼基さんは頷き、私の隣に腰掛けた。
闇に一人で取り残されると、またあの子が現れるような気がしたのだ。
「……時々考えてしまうことがあるの。自分がどうしようもない最低の人間なんじゃないかって」
あの悪夢を見るたび思うのだ。彼やあの子があんな風に言う人間じゃないことはわかっているのに。夢の中で私を責め立てさせて、彼らを嫌う理由を作ろうとしている自分が嫌になるのだ。
彼らはいつだって優しくて――それを私が勝手に妬んで避けているだけなのに。
「駄目だわ、私……これじゃ誰にも顔向けできない」
「亜理愛」
遼基さんが私の手を掴む。やはり少し冷たい――その冷たさに今は何よりほっとする。
「君が自分をどう思おうが、僕は君を愛している。君がどんな人間であっても、どんなに変わってしまっても――僕は君が何よりたいせつだ」
「遼基さん……」
「君が望む限り、ずっとこうしていよう。夜が明けても、再び日が沈んでも」
ああ。私には彼がいる。何があっても遼基さんだけはずっと見てくれている。それが何より嬉しくて――――なのに、胸の底から恐ろしさが湧いてくる。
「……抱きしめさせて。ずっと、体温が下がるまで」
「ああ、もちろん」
私の熱を彼に移すように、彼の体を強く抱きしめ、口づけを交わした。少しでも多く、彼の実感が欲しかった。
――もしも、彼のことまで嫌いになってしまったらどうしよう。誰より私を愛してくれる彼さえ捨ててしまいたくなる日が来たら。絶対にありえないはずの仮定が浮かび、その問いから目を逸らすように、私は彼を抱き続けた。